▶︎ 弘前大学の学生による「三沢市の関係人口を創る」プロジェクト

小笠原 彩子さん
インタビュー記事

小笠原 彩子さん

小笠原さんは子どものころ、お父さんのお仕事の関係で県内各地に暮らす「転勤族」でした。小学6年生より弘前市に暮らし始め、以降は28歳まで弘前で過ごされています。その後、学芸員として三沢市先人記念館に勤めるのをきっかけに三沢市に移住され、現在はフリーランスとして『デーリー東北』紙の市民記者をはじめライティング、文化・FP事業、講師業、キャリア・事業支援等、幅広く活躍されています。これらのお仕事は小笠原さんのなかでは、「地方創生」につながっているようです。

小笠原さんは、三沢独自の文化を残していくことに強い関心を寄せているとてもアツい方でした。インタビューでは三沢市への移住前後の来歴とともに、歴史的な建造物など「情緒あるもの」を利活用し、かつ新しい人口を迎えるのに適したオープンさを活かす地域づくりの理想についてうかがうことができました。

Interviewers >>
横倉 歩
仲地 紀迪

「転勤族」の子ども時代、弘前へ

12歳までの子ども時代、小笠原さんはお父さんのお仕事の都合で「転勤族」として、県内各地を移動する小学校時代を過ごされたようです。弘前市に落ち着いたのは小笠原さんが小学6年生のときでした。

小笠原さん:青森県の下北、津軽、南部は全部住んでいます。小学校は3回変わりました。結構ハードですよ。12歳の秋、卒業間近の小6の秋に弘前に移りました(笑)。

横倉:結構負担になりますよね。

小笠原さん:本当にハードでした。新しい土地に慣れていくあいだというのは、自ら働きかけていくことも重要なので。(子どもなりに)かなり工夫というか、生活に馴染んでいかなければならないという意識のもとに、身につけてきたことも自分なりにあります。…あとは、同じ⻘森県なのですが、全然風景とか人の気質とかも違っていて、そのおかげで土地それぞれのよさというのは感じることができました。地方創生にすごく思いがあるのもそのためです。自分が転勤族で故郷というものを大事にした
いという憧れがあって、そこからスタートしているところがあると思いますね。

県内各地で引越しを繰り返した子ども時代の経験は、小笠原さんに県内の各地域の特徴がそれぞれに異なっているということへの気づきをもたらしています。一方で、自分が暮らしているまちに、子どもの頃からの幼なじみがいることや故郷と呼べる場所があることへの憧れが育っていったのだといいます。

インタビューの中で、われわれ学生インタビュアー2名(横倉、仲地)の出身を小笠原さんから尋ねられたのですが、二人とも県外出身です(山形県と岩手県で、いずれも県庁所在地外)。子ども時代の引越し経験はちがいますが、大学入学時点で地元を離れた経験から、小笠原さんのおっしゃることには共感できる部分があります。

その後、28歳まで小笠原さんは弘前で暮らすことになります。小笠原さんはこのインタビュー開始の自己紹介のとき「弘前市出身です」とおっしゃっています。小笠原さんにとっての地元は弘前だと言えるのかもしれません。

小笠原さん:28歳で三沢に来るまでずっと弘前に住んでいました。そのため、弘前への思い入れがどうしても大きいです。現在でもどこか弘前と2拠点で過ごしている意識があります。三沢で知り合いもいないゼロからのスタートで、孤独なときなど、三沢1か所ではなくて、自分は弘前と2拠点に住んでいるのだと思うようにしていました。

横倉:三沢と弘前と2拠点だと、ちょっと気持ちが楽になるという感じでしょうか?
弘前には昔からのお知り合いだったり、つながりだったりってあるんですね。

小笠原さん:ありますね。2拠点だと思うと、少し楽になる。

生活の拠点を複数もつ「複数拠点生活」が、新しいライフスタイルの1つとして注目されています。小笠原さんの場合、現在住まわれているのは三沢市の「1拠点」ですが、地元や実家といったところをある種の気持ちの拠点と考えた場合、広い意味では、もともと多くの人が複数の「拠点」や人びとの「コミュニティのネットワーク」につながって生きているのだと、このお話を聞いてあらためて思えました。そしてそれは地元や実家にかかわらず、長く暮らして親しんだところがそうなるのでしょう。

小笠原さんは、多様な人とつながっていくことに貪欲な、エネルギッシュな方だなという印象を受けました。たとえば、大学時代についてうかがったのですが、「アルバイトばかりしていた」ということで、家庭教師、塾講師、小売店販売員、梱包など多くの業種を経験されています。「大学以外でいろいろな人に会いたい、自分の適性や得意・不得意分野を知り、掘り下げたかった」とのことでした。

インタビュー風景
インタビュー風景

学芸員として三沢市に移住

小笠原さんが20歳代の後半で三沢市に移住したのは、学芸員のお仕事に就くためでした。「指定管理者制度」のもとでの募集に応募し採用され、谷地頭にある三沢市先人記念館に学芸員として着任したのです。

先人記念館は「道の駅みさわ」と隣接しており、この場所は元会津藩士・旧斗南藩少参事の廣澤安任が廣澤牧場を開いたところでした。廣澤牧場は日本初の西洋式牧場だとされています。恥ずかしながら、われわれインタビュアー2人は廣澤や斗南藩についてほとんど知りませんでしたので、このインタビューの場で小笠原さんにいろいろ教えていただきました。

学芸員として働き始めた小笠原さんは、約1万2千点の収蔵資料の研究・整理・保管・管理・公開のほか、企画展、広報、講師業、執筆など運営全般に関わりました。

小笠原さん:企画展を、おおよそ25回担当したのではないかと思います。6年9カ月ぐらい勤務し、もともと学芸員の専門的な視点から、「ミュージアムからのまちづくりや地域活性化」という思いでずっと取り組んできました。地域につながる仏沼などの自然資源や、文化施設に興味を持ってもらいたいと思って。興味はあっても遠くに行けない方はいらっしゃいます。そういう方がたにもいろんなものに触れていただけたらという思いがありましたので、外部からいろいろなものを借用し先人記念館に企画展示をしたり、講座を開催したりとか。収蔵資料に関しては、三沢市役所の協力を得て整理事業にも取り組みました。利活用の一環では、『八重の桜』という大河ドラマで、山本覚馬の貴重な写真が先人記念館の収蔵整理事業で確認でき、全国版で放映
されたことがありました。ああ、研究からも三沢と全国のお役に立つことができたと、収蔵資料整理をできてよかったと心から思いました。

横倉:なるほど。

小笠原さん:このように歴史上のものを残していく取り組みや、ものをただ眠らせておくのではなくて、整理して、利活用・発信していくことの重要さを実感しました。

廣澤安任に関する展示資料は、もしかしたら明治時代のリモートワークについて考える素材になるかもしれない、というおもしろい説も聞きました。先に登場した山本覚馬は幕末会津藩士、のち明治時代の地方官吏、京都府議会初代議長。廣澤安任は、このほかにも歴史上の著名人と多く関わりがあったようなのです。

横倉:約1万2千点となると、相当の量になると思うのですが、結構時間をかけて整理をされていますか?

小笠原さん:いやぁ、大変でしたね。本とか書簡とかの「紙もの」がとても多くて。
廣澤安任という人物は、まだ一部の人にだけ知られている状況です。でも、明治政府の重要な人物といろいろ関わっていて、例えば、大久保利通(維新三傑の一人、初代内務卿)とか原敬(第19代内閣総理大臣)など、そういう人とのやり取りとか、今でいう地方にいながらも東京と繋がり情報を得たり、先進的なビジネスを展開していて時代の先をいっているなぁと。現在、2拠点や複数拠点を持つなど、都会ではなく地方でリモートワークができるなどと仕事も多様化されてきているのですが、ネットもない時代に廣澤安任さんはそれを実践していたというのを、史料から感じることができるんです。

三沢市の独自性をもとめて

小笠原さんにとっての三沢市の特徴は何でしょうか。一般には三沢市は「基地のまち」ということがよく言われ、それはやはり大きな特徴です。先人の築き上げたものと「基地のまち」という複数要素の絶妙な配合が、現在の三沢市の特徴でもあるのですが、その特徴を分かりやすく出すためには、先人が培ってきたものも残し、利活用する意識が重要ではないかと話す小笠原さん。

この見方はもちろん、かつての学芸員のお仕事が関係しているでしょう。予算制約などのためか、青森県はまだ先人が培ってきたものを残して活かすという基盤づくりや意識が弱い傾向にあるのではないか、という思いを抱くようになったのだそうです。他方で、三沢市は新しいものを柔軟に受け入れるところも大きな特徴であり、古いものと柔軟な気質、これらの両立が重要だというのが小笠原さんのご意見でした。

小笠原さん:三沢市は「基地のまち」だと表現する人もいます。そのため、ある意味で言うと新しいものや、いろいろなところから来てくれた人を受け入れてくれる、すごしやすい、柔軟なまちでもあります。映画館が最大7館あった時代もあるなど、様々な文化に触れあうことができる、とてもハイカラなまちでもあります。

横倉:えっ、すごい。

小笠原さん:新しいものに敏感で柔軟な人が多いなぁと。それと、以前から住んでいる人もいて、面白い文化。そこがユニークなのですが「基地のまち」とひとくくりにされると、そこまで伝わるのかどうかがちょっと気になります。三沢の先人が培ってきたものを残し利活用する、という意識もより浸透していくといいな、と思います。
たとえば、公共の場所で三沢市としては歴史的名残がある旧三沢駅。取り壊しに際し、三沢駅建材の保存と利活用をいろいろ働きかけましたが、「残す意味が分からない」というお話もいただきました。

横倉:それは地元の人も含めてですか。

小笠原さん:そうですね。三沢の歴史とか、いいものを残したい、情緒あるものを残したいとおっしゃってくださる方々が力を貸してくださって事業を無事終了することができました。三沢市は人口の出入りが多い傾向にあり、入れ替わりがある分、総人口の思い入れのパーセンテージがどうしても低くなるのかもしれない。弘前から来た時、カルチャーショックをうけました。保存・管理・予算上など諸事情もあり、失われても仕方がないこともありますが…例えば、津波碑の保存ができなかったときもい
ろいろ感じ、学ぶことがありました。

もちろん、古いものを保存し、利活用するにはお金(予算)などの問題や、市民の価値観もかかわるので、これは一概には結論が出せない難しい問題かもしれません。日本や海外の著名な観光都市には、かならずといっていいほど歴史的な建造物と利便性ある新しいインフラとが共存していると思います。それは、歴史的遺産を残す価値が認識されていることと、実際に残す・利活用するための、観光収入からの予算が確保できることとのあいだの好循環があってのことではないかと思います。

われわれインタビュアー2人とも、三沢市には今回初めて訪問したのですが、市街中心部へアプローチするときの景観はとても印象的でした。

横倉:車で入ってきたときに、昔の商店街みたいにずっと狭い道だなと思ったら、急にパーッと広くなって。

小笠原さん:そうそう。あれっ?と(笑)。そしてスカイプラザなどがあったり。

横倉:シャッターで閉じられた店が結構並んでいて、昔ながらのような感じがあるなと思ったら、急に新しめの感じの店がパーッと開いて、あ、なんか雰囲気変わったなと感じましたね。

小笠原さん:ベース(三沢基地)の名残とかもあって、ベースそばのちょっとした商店街の裏に外国の人がよく出入りするパブなどが以前あったり。客のマイ・マグカップが店に置き、飲みに来たときに使用するという文化もありました。外国の人も日本の人も飲みに行き交流する。三沢の人は柔軟に受け入れてくれる。新しいものに反応し、いろんな人を受け入れてくれるという文化がそういうところからも入ってきているのかなというのと、あと、人口のわりに外食屋さんがすごく多いと思います。外国
の方って外食が比較的多い文化なので、その影響もあるのかなと推測しました。これも最初来たときにびっくりしたのですが、から揚げ専門のお店があるんです。から揚げとビールだけという風景に衝撃を受けました(笑)。

横倉:ほかは何もなく?

小笠原さん:ないんですよ。アメリカってから揚げとかフライドチキンがよく食べられているイメージあるじゃないですか。だからチキン食文化からこのようなお店ができたのかな思うんですけど。あと、三沢の場合、畜産だけではなく漁港もあるまちで、魚介類がとても安くて美味しくて新鮮です!ぜひ食べてみてください。三沢に住んでからお寿司をとても食べるようになりました。

インタビュー風景
インタビュー風景

移住後の三沢での暮らし、人のつながり

から揚げは気になりますし、お寿司が安くておいしいといういい情報をいただきました!・・・ところで小笠原さん、三沢市に引っ越してきて馴染んでくるまでの、日常生活の感じはどうだったのでしょうか。三沢市に移住してくる人たちが、三沢市での生活をスタ
ートしていくことについて、さまざまな補助制度などについてはこの「三沢市移住サイト」内に解説がありますので、ここではおもに社会面について、聞いてみたいと思います。

横倉:移住、転勤もそうですけど、環境が変わるとかなり負担もかかるし、結構苦労することって多いと思うんです。小笠原さん自身が初めてこの土地に来たときの苦労したこととか、これ、結構大変だったなみたいなお話なんかも、ちょっとお聞きできればと思うんですけども。

小笠原さん:私、三沢に知り合いがいないゼロからのスタートで、学芸員としてミュージアムからまちを元気にしたい、地域活性化に取り組みたいという熱い思いで来ました。文化施設ってとても重要な場所で、そこから学んだり、歴史あるものとか、いいものから地域や人を元気にすることができるという信念を持って三沢に来たので、本当に自ら必死に働きかけました。企画展を企画するにも、仕事とプライベートの区別なく仕事をしました。休みの日もいろいろなところに調査や参加して、展示物を貸してくださるところはないかとか、そのための信頼関係を関係各方面に作っていくことに熱中しました。ある意味、ワーカホリックですね。自分ができる限りのことはやったと思います。それで航空科学館や寺山修司記念館などのご協力をいただくこともでき、ミュージアム同士の連携もできました。

移住されてからの日常生活は、しばらく「仕事の鬼」だったようです。ミュージアム(博物館)と「地域活性化」のつながりということについて、私はまるで意識したことがなかったのですが、小笠原さんの話には引き込まれました。

では、三沢市に移住してからの、お仕事以外の暮らし方は、どうだったのでしょうか。

横倉:お話を伺っている感じだと、仕事つながりで働きかけて、特にいろんなところとのつながりが多くあるっていうふうに感じたんですけど、日常生活の場面における人とのつながりとかって、具体的な、こういうコミュニティというか団体に行ってみたとか、そういったお話はあったりしますか。

小笠原さん:ありますね。まず、仕事でつながった人がひとつですよね。仕事を辞めてもつながってくれる人もいますし、そういう人がまずひとつですよ。いろんな資格を取得したり、勉強会やコミュニティカフェなどで知り合いになった方とのつながりは、いまでもとても大事なものです。私は子どもがいるので、子ども関係のつながりもあります。子どもを産んですぐに『デーリー東北』の市⺠記者の話をいただいて、子どもを抱っこしながら取材に行ったり、自身の事業に取り組んだりもしていました
。取材に行くといろんな人に出会うことができます。そこでつながりを持った方もいます。年齢層は幅広いですね。10歳以上歳下のお友達とかもいるし、幅広くいろいろな方がたとご縁をいただいてきて、本当にありがたいなと思っています。

まだ小さなお子さんを抱いて働くパワフルな小笠原さんの姿を想像しながら、同時に「子どもを連れた人どうしのつながり」ということのもつ具体的な力を理解できるエピソードでした。まさに、子どもたちは地域の人びとをつなぐ「かすがい」なのかもしれません。
コロナ後に改めて考える「よりどころ」

最後に、「転勤族」だった子ども時代からミュージアムのお仕事を経てこれまで、小笠原さんは三沢市の「地域づくり」にこだわってこられたと思うのですが、そのことと、弘前市などほかの地域との「複数の拠点」「さまざまなネットワーク」をもつこと、つくるこ
ととは、決して矛盾しないんだということを考えさせられました。

小笠原さんの言葉でいえば、それは住む地域のなかにも、そしてそのほかの地域にもいくつか「よりどころ」があること、となります。そのための場や機会がいまはさまざまなところに創られつつあります。三沢市でも、その通勤圏・生活圏である十和田市・八戸市など近隣地域でも。

小笠原さん:どうしてもネガティブになっちゃうときってあるじゃないですか。でも、それも受け入れてあげないと自分が苦しくなりますよね。そのときに、心のよりどころというか、「あ、自分はあそこに行くと話せる」と思える落ち着く場所、いわゆるサード・プレイスをいくつか持っておくと自分を保てるのかなと思います。

横倉:「よりどころ」ってすごく大事だと思うんですよ。初めて三沢に来たときって、知り合いゼロからスタートとおっしゃっていましたが、移住者同士のつながりとか、つながりをつくることができるような場所は、身近にあったりしましたか?

小笠原さん:私のときは、まだそんなに浸透してなかったように思います。今は弘前にも、まちづくりとかいろいろ交流したり学んだりできる場所があるじゃないですか、土手町とか百石町にも。地域おこし協力隊の方がカフェを開いて、移住者たちが交流できる場所をつくってくださっていて。「移住」に力を入れているところも多いですよね。行政、企業、地域おこし協力隊の方なども交流や雇用の支援をしてくださったり。十和田のIT 企業さんとかもコワーキングスペースや交流の場を展開しています。だから、今はいろんな人とつながりやすくなっていると思います。ネットも充実しているのでオンラインでもつながれたりする。コロナ禍ってそういう新しい状況も残したなと思います。

たしかに、コロナ禍はわたしたちに人間社会やコミュニケーションの本質にかかわるさまざまなことを実地で教えてくれました。通信技術はリモート活動を可能にしました。しかしいっぽうで、つながっているのかつながっていないのか、よくわからない関係も多く生み出したのかもしれません。やっぱり、オンラインも「対面」がベースにあってこそのものだと私は思っています。

われわれインタビュアーの学年は、大学に入学した年がコロナ禍のオンライン体制で、通常の大学生活のにぎわいはありませんでした。そのなかでわれわれの感じた不安とかストレスというのは、「さびしさ」「つまらなさ」というより「よりどころのなさ」だったと言えるのかもしれません。

横倉:いやぁ、コロナになってから学校、最初1年の前期ぐらいはずっと家にこもって大変でしたけど。

小笠原さん:そうでしたよね。本当によく頑張りましたね。

横倉:あのときは友達という友達がほとんどいなかったので。結構きますね。

小笠原さん:そうですよね。ずーっと家にいるんですものね。それに2人とも、地元から弘前に移住した直後ですよね。弘前で、ゼロから始まってますもんね。だから、今日もそういうのを分かっていらっしゃるから私の話を上手く引き出す質問ができるのですよね。お2人とも若いうちに、大変でしたが貴重な経験されましたね。ご苦労されたことで気づいていらっしゃることがたくさんあるんだなと、ご質問いただいて、伝わってきました。

横倉:いや、今すごく僕自身、お話を聞く中で、確かにちょっと通じる、移住っていうのと自分たちの経験がつながるところもあるなというのは、今、指摘を受けてハッとさせられたところがあるので、僕自身、今、すごく勉強になるなと思ってお話を聞いていました。

移住生活は、自分にとってのあらたな「よりどころ」を作っていく、増やしていくスタート地点だと言えそうです。小笠原さん、どうもありがとうございました。

(インタビュー 2022年11月26日)